神社

宇閇神社(うへじんじゃ・うのいじんじゃ)

祭神

鵜羽葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

所在

丸亀市綾歌町栗熊西字宇ノ井上277番地

由緒

酒部益甲黒丸の創祀と傳へられ、延喜神名式に「讃岐国鵜足郡宇閇神社」とあるのは、當社なりとも云へり。三代物語、全讃史、生駒記等は此の説なり。 傳ふる所によれば、酒部益甲黒丸は武卵王の裔にして當地に住し酒を醸す。城山長者と称せられ其の家甚だ富む。 常に家に井泉なきを憂へしが、邸内に栗の樹あり、鵜樹上に集へるが、或る朝鵜群足を以て地をえがきしに其の處より清水湧出して流を為せり。夜は星影この水に映じて玉の如くなりしより玉の井と称す。 郡名鵜足はこれによって起る。又郷の名を栗隈又は玉隈と云う。この水の至る所五穀豊熟せり。依って其の地を富隈と云う。黒丸この水を以て酒を醸ししにその色黒く澄みて味甚だ甘味なり。以て允恭天皇に奉る。 天皇之を嘉し給ひて姓酒部を賜ふ。其の酒を称して黒丸酒と云へり。黒丸一祠を井のほとりに建つ、即ち當社なり云へり。後鵜井権現、鵜野邊の神等称せられ、更に降りては十二社権現とも称へられたり。黒丸の○跡を城山と云う。 今木山と誤れり。又玉井大明神と云う祠あり。栗樹の跡を栗野と云ひ、當社地を鵜之井免と云う。明治初年宇閇神社と改称し村社に列せられ、大正七年八月神選幣帛料供進神社に指定せらる。(香川県神社詩より抜粋)

解説

①宇閇神社について
鵜羽葺不合尊は、日本神話の神。古事記では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえずのもこと)、日本書記では彦波○武○○草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記されています。 「山幸彦・海幸彦の神話」はご存知だと思いますが、神話の記述によりますと、山幸彦(ホオリ)と海神(ワタツミ)の娘である豊玉毘売(トヨタマビメ)の子。 ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズノの三代は日向三代と呼ばれている。山幸彦と豊玉毘売が住んだ場所とされているのが宮崎県の青島神社、息子の鵜葦屋葺不合命の宮は鵜戸神宮です。 豊玉毘売は海の宮で懐妊したが天津神の御子は海の中で産むわけにはいかないとして、海辺の渚に産屋を作ろうとしたが、葦草がわりの鵜の羽を葺き終わらないうちに豊玉毘売が産気づいたため、「ウガヤフキアエズ」と名付けられることになった。 豊玉毘売は「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」とホオリに言う。 しかし、ホオリは産屋の中を覗いてしまい、そこには豊玉毘売が姿を変えた八尋和邇(ヤヒロワニ)が這い回っているのを見て逃げ出した。 豊玉毘売はホオリに覗かれたことを恥ずかしく思って、産まれた子を置いて海に帰ってしまい、代わりに妹の玉依毘売(タマヨリビメ)を遣わした。 豊玉毘売はホオリが覗いたことを恨みはしたが、やはり恋しくて、玉依毘売を通じてホオリと歌を読み交わした。ウガヤフキアエズは、育ての親である玉依毘売と結婚し、玉依毘売との間には五瀬命(イツセノミコト)・稲氷命(イナヒノミコト)・御毛沼命(ミケヌノミコト)・若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)の四子をもうけた。 ミケヌは常世の国(理想郷)へ渡り、イナヒは母のいる海原へいった。末子のワカミヌケが後にはカムヤマトイハレビコ、即ち神武天皇となる。 信仰的には、他の天皇につながる神と同様に農業の神として信仰されるほか、説話から夫婦の和合、安産などの神徳もあるとされています。

② 酒部益甲黒丸について
讃留霊記に、讃留霊公の裔に酒部益甲黒丸という人物がおり、酒を造って允恭天皇へ奉ったとありますが、実態はよくわかっておりません。 この神社を初め飯山町の讃留霊王神社、土岐川周辺で黒丸創始の神社は多く見られます。

住吉神社(すみよしじんじゃ)

祭神

表筒男命(うわづつおうのみこと)・中筒男命(なかづつおうのみこと)・底筒男命(そこづつおうのみこと)

所在

丸亀市綾歌町栗熊東字高丸961番地

建造物

社殿 木造銅板葺
幣殿・拝殿 木造銅板葺
随神門 木造瓦葺 神庫 木造瓦葺
石鳥居 宝暦五乙亥(1755年)歳三月吉日 高さ一丈四尺
石灯篭 安政三丙辰歳(1856年)三月吉祥
境内 3,362坪

氏子

栗熊東全域及び富熊北岡地区住民

祭礼

10月第2日曜日(体育の日)住吉神社

由緒

當社勧請ノ初発者清和天皇貞観年中(859〜875年)ト申傳候。天正(1573〜1592年)ノ頃迄ハ小社ノ由申傳候。 然ルニ往昔此所ニ湖水アリ其辺ニ大樹在リ其ノ樹下ニ神久シ小社アリシニ或時洪水横流シテ綾川ノ水西ニ逆行シ坊崩レテ堤山ノ麓ニ○リ民家悉クト漂フ事恰モ船ノ如シ。 里民多ク溺死セントスル時ニ衆人ミナ遥ニ小社ヲ遠拝シ一心項礼シテ溺死ヲ免レル事ヲ祈ル。 ○ニ奇ナル哉彼ノ小社ヨリ野鳥白鷺飛出テ水面ヲ渡リ東ヲ指テ飛去レバ今迄満々ト○ル水瞬ク内流去リテ○チ泥土ト成テ此地ニ死ニ至ル者更ニナカリシトイフ。 是応永年間(1394〜1427年)ノ事ナリト申傳候。此霊験ヨリ里民崇敬シテ氏神ト仰起奉リ殿舎ヲ造営シ祭祀ヲ設ケ傳リシトナス。夫レ鷺鳥ノ鳴渡シ所ナルヲ以テ後世渡池ト云フ。 是不思議ナル因縁ナリ。此地昔ハ大樹繁茂シテ幽蔭タル霊場ナリシガ皆民家田地トナリ少シノ社地トセリ宮殿モ乱世兵火ノタメ○滅シテ古ノ印ノミ残リ侍リ。又代々ノ社職其昔ニ復センコトヲ希ト誰モ其時ノ至ランコトヲ哀ムノミ。 宮地更ハ正徳五年(1715)七月廿一日御引渡ニ相成申候。栗熊西村ノ内畦田御林添ノ所ニテ拙寺自分林畝数二町余指上栗熊東北山御林ノ内ニテ東西六十間南北五十五間ノ場所住吉神社ノ社地ニ土地更彼仰付御座候。 (栗熊村史より抜粋)境外末社 四十三神社(神櫛王及其臣四十二柱神)久斯神社(少彦名神)その他 円福寺快天山古墳

解説

祭神は神道で信仰される神で「底筒男命(そこつつのおのみこと)」・「中筒男命(なかつつのおのみこと)」・「表筒男命(うわつつのおのみこと)」で総称して住吉三神と呼ばれる。 住吉大神ともいわれるが、この場合は住吉代謝に共に祀られている息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)を含めることがある。 海の神、航海の神とされる。住吉は、元は「すみのえ」と読んだ。住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、「住(スミ)」と「吉(エ)」の間に助詞の「ノ」を入れて、「住吉」は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。 スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり、澄江、清江とも書いた。古代における天皇即位の際の重要な祭儀である八十嶋祭の清めの海を表しており、天皇は即位すると現在の大阪湾の住吉(スミノエ)の海で清めの儀式を行ったのである。 住吉大社周辺の墨江や住之江という地名は「スミノエ」の読みに漢字を当てはめたものとされる。古事記や日本書紀などの日本神話では、イザナギが禊をしたときに、住吉三神は、綿津見三神と共に生まれたとする。 元は綿津見三神と同じ神だったが、古代王権が九州から畿内に東遷する時、重要な役割をしたのが住吉三神であるとされる。つまり九州に留まったのが綿津見三神で、近畿へ移ったのが住吉三神ではないかともいえるのである。 そのあたりの消息を示すものとして、住吉三神を奉祭し、住吉大社の古代以来の歴代宮司家だった津守氏の氏神が大海神社(通常は「だいかいじんじゃ」と呼ばれるが,正式には「おおわたつみじんじゃ」と読む)ことが挙げられよう。 また住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社は、博多の住吉神社や壱岐市の住吉神社や神戸市の本住吉神社が有力であるが、どの神社が最古の住吉神社か明確な結論は出ていない。 神名の「つつ」とは星のことであり、住吉三神は現在でいうオリオン座の三ツ星の神格化という説もある。あまり目印のない海上で、オリオン座の三ツ星は自分の船の位置を知るための重要な目印となるので神格化されたともいう。 また対馬の豆酘(つつ)、壱岐の筒城(つつき)、糸島の筒木(つつき)がオリオン座の三ツ星の配置となっている。「つつ」といえば、ほらこのあたりにも堤山(つつまやま)堤池(つつみいけ)が・・・・・

諏訪神社(すわじんじゃ)

祭神

武御名方命(たけみなかたのみこと)

所在

丸亀市綾歌町栗熊西字荒1417番地

由緒

傳ふる所によれば、往昔栗熊西村の南方猫山より怪猫出でて村民を害し幼童を喰ふ。又當社三町程 諏訪神社東に大樹あり。鳴橋と唱へ怪猫ここに出でて盛んに行人を悩ます。里人酒部黒麿に請ひ荒の地に黒麿自作の神像を以て神社を建立し、武神建御名方命を勧請せしに猫害これによりて止みたり。天正年中兵火に罹り後再建すと云へり。(香川県神社詩より抜粋)

解説

建御名方神(たけみなかたのかみ)は、日本神話に登場する神。葦原中国平定において、大国主の子として登場する。 建御雷神(たけみかづちのかみ)が大国主に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主は息子の事代主(ことしろぬし)が答えると言った。 事代主が承諾すると、大国主は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷に変化した。 これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽の海まで追い詰められた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。 この建御雷神と建御名方神の力くらべがが後に日本の国技となる相撲の起源になったと伝えられいる。 この神話は「古事記」にのみ残されており、「日本書紀」での葦原中国平定にあたる部分に彼の名前は見えない。 これは本来この国譲り神話に登場しないはずの建御名方神を古事記編集者である太安麻侶が故意に押入したしたためだと考えられている。 諏訪大社の社家の一つで建御名方神を祀っていた氏族金刺氏の近縁であった太安麻侶は、元々大国主や出雲と関係のない諏訪地方の神であった建御名方神を、国津神の長である大国主の息子という設定を与え、古事記に登場させたのである。「諏訪大明神絵詞」などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、 土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。諏訪大社(長野県諏訪市)ほか全国の諏訪神社に祀られており、武神、農耕神、狩猟神として信仰されている。 風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる。 建御名方神は、神(みわ)氏の祖先とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ保科氏など諏訪神党の氏神でもある。

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