寺院

勝福寺(しょうふくじ)

名称

松琴山最勝院勝福寺

宗派

浄土真宗本願寺派

本尊

阿弥陀如来

開基

永正七年(1510年)蓮栖創建

由緒

長尾大隅守末裔・幡多惣兵衛俊正末子足之助善正、出家して円覚と号し多度郡山科に住んでいた。その六男を出家さし蓮栖といった。その蓮栖が永正七年雉尾に来たりて寺を創建した。かねて蓮栖上洛の折、蓮如上人の教化を受け六字の名号を賜った。永禄七年(1564年)失火により堂宇焼失。岡部に移転し再建した。三代目浄開の時阿野郡南西分子堂より阿弥陀如来一○を迎えて本尊とした。(綾歌町史)

専立寺(せんりゅうじ)

名称

梨岡山伝証院専立寺

宗派

真宗興正派

本尊

阿弥陀如来

開基

明応五年(1496年)沙門了信再興

由緒

この寺は昔は天台・真言兼学の寺にして梨岡山伝証烏田寺(からすだ)と称し、現在の寺地より東に堂屋敷という伽藍跡がある。同地の八幡宮別当を兼ねていたが。 明応五年沙門了信が再興した。了信は長尾大隅守の一族大林佐兵衛光忠の子孫となっている。了信在職中仏法に関する意見の相違があって真宗に改宗、専立寺と改めた。 天正年中二代乗蓮のとき、土佐兵乱入し○物・諸堂ことごとく焼失。その後乗蓮草庵を営み居る内、生駒雅楽頭殿より寺領寄進され嘉永四年(1627年)生駒高俊公より改めて九斗六升下された。 高松藩御領分中寺々由来所に阿州安楽寺末寺となっている。また当寺所蔵の明和六年の御絵伝の箱蓋にも「興正寺殿御門徒安楽寺下讃岐鵜足郡栗熊郷宇野井村」とある。 いつから安楽寺末寺になったか明らかでないが、離脱は寺記録によると、九代超薫の明和七年(1770年)十二月となっている。 明治六年六月二十八日西讃暴民一揆の際に、当寺が栗熊西村の仮区努所であり、学校でもあったので焼き打ちされて門を残して全焼した。その後本尊を仮堂に安置していたが明治三十二年ごろ再建された。(綾歌町史)

福成寺(ふくじょうじ)

名称

梵音山真興院福成寺

宗派

浄土真宗本願寺派

本尊

阿弥陀如来

開基

応永元年(1394年)了円創建

由緒

その草創は聖武帝の時、行基菩薩が阿弥陀像を刻んで安置した時に始まる。後真言宗に改められたと寺記録に記されている。降って応永元年>幡多惣左衛門正家が、了円と称して在往し、同二十八年真宗に改宗したことになっている。二代目乗高(了知)は、長尾大隅守元高の九男で惣左衛門尉高乗である。了円の子の俊正が、長尾大隅守元高の妹聟であったので、迎えて僧となったものである。故に長尾氏の帰依寺となった。七代乗覚の時、天正の兵火に消失。廃寺となったがまた再建されて、生駒候より二石八斗六升を寺領としてもらった。のち生駒高俊公の時寺領一石九斗になった。十四代乗州の安永九年十二月十五日本願寺院家となる。十五代乗隆の時、本堂再建。(綾歌町史)

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